1000日の経過と共に、被災地の日常風景を記録してゆくアーカイブプロジェクト『After 1000 Days』。
今回の撮影で3回目を迎える。コロナ禍という状況の中にある2020年8月29日。
3000日目が経過した東日本大震災の被災地へ向け、再び旅が始まる。
1 JR仙台駅 2020/0829/AM9:45
それはあまりにも唐突にやってきた大きな災厄だった。1年前の2019年に記憶を巻き戻してみたい。
メディアでは連日、
“東京オリンピック2020まであと1年!”
“過去最高のインバウンド特需!”
など、お祭りムードと景気の高まりに期待を寄せる言葉が喧伝されていた。
東京や全国各地の観光地は連日、海外から訪れた大勢の旅行客で溢れかえり、日常生活の場には様々な国の言語が耳へと飛び込んできた。コロナウイルスが蔓延する前、人々は国境を越え“自由に往来”をしていた。それは何も特別な事ではなかった。
コロナウイルスと言う名の世界的なパンデミックを引き起こしたウイルスがやってきた。日本のみならず世界中の都市機能と経済活動を一斉に停止させた。
世界中の人々の暮らしは一変し、
“ 新しい生活様式 ”
“ ニューノーマル ”
なる言葉も誕生した。日常生活の機能が全停止してしまう体験は、先の震災で9年前に自分も経験している。けれども世界中が同時に非日常の領域に突入する事は想像をした事もなかった。移動をする。会う。集う。語らう。同じ場所で、同じ時間と体験を自分以外の誰かと共有する。
これまでは当たり前だと思っていた生活様式を送る事が、全てにおいて後ろめたい気持ちも持ちながら過ごしていく事になってしまった2020年の夏。いつもなら夏休みの最後の休日を楽しむ家族連れでにぎわう新幹線ホームも閑散としている。
「このマスク姿だらけの風景の夏は果たして1000日後には解消されているのかな?」
そんな事を考えていたら定刻通りに新幹線が下りのホームへと滑りこんできた。ふと目線を移すと新幹線の車内からヒロシワタナベ氏が僕に向かって手をふった。
2 仙台市→南三陸町
「この道を3人で巡るのも1000日ぶりだ」
と、ヒロシさんが助手席の窓を開けて呟くと、2000Daysから取材チームに加わった由布子さんが後部座席で「あっという間ですね」と返した。
仙台から南三陸や気仙沼へのアクセスは震災から9年の歳月を経てますます便利なものとなった。三陸自動車道はもうすぐ仙台―気仙沼間が1本の道に繋がる。9年前の春、南三陸町や、気仙沼市に辿り着くには4~5時間の運転を覚悟しなければならなかったのに、時間の経過と共にあの時期の感覚を忘れはじめている自分がいる。
道中の車内ではこのコロナ禍で一変してしまったこの春についてヒロシさんと対話を巡らす。
「まずは取材に行ける状況なのは本当に良かったよね」
ヒロシさんがカメラを片手に僕らに話しかけた。
本当にそうだ。諸外国と比べた時には日本はまだ移動制限は緩和されている。
「息子達は本当に大変だよ。大学の授業は全てリモートになっちゃったし。高校も対面授業が始まるのは9月だし」
21世紀を生きる若者達は2011年の東日本大震災、そして今年のコロナウイルスのパンデミックと、大きな災害や災厄に見舞われてしまった世代だ。震災前、震災後で少なくともこの東北では様々な価値観が変わっていった。そしてこのコロナ禍終息後では世界の価値観もまた大きく変わっていくだろう。
この2つの大禍を経験をした若者たちはこれからの未来をどの様に変革してゆくのだろう?
互いの近況を話した後、僕達のビジネスの場でもある音楽を取り巻く環境の話に。
「この数年間で音楽を聴くという行為はストリーミングが中心になったよね。だからこそ過去から振り返って改めて府に落ちない事も出てきて、自分が心血を注いで造りあげた楽曲の価値(値段)というのが、今迄販売側に沿って決められてしまう事にはかなり疑問があるんだよね。もちろんデジタルリリースは悪い事ばかりではなくて、Bandcamp(バンドキャンプ)の様に、売上の80%程度が直接アーティ ストに還元されるビジネスモデルになっていたり、作品をリリースするタイミ ングを自分のペースで決められる様になった事も大きいんだけどね」
COSMIC SIGNATURES(ヒロシワタナベ主宰レーベル)
https://hiroshiwatanabe.bandcamp.com/
”音楽ストリーミングの台頭で、作り手にとっての楽曲の価値観とマーケットニーズに大きな隔たりを生むことに対し、抵抗するよりも新たな価値を創造する道を模索するべきじゃないか!”リモート会議や飲み会にしろ、これまでの対面で感じ取れるアナログの熱量やニュアンスをどう伝えるべきなのか。価値観の新旧の狭間で何が正解なのか、日常生活や音楽に限らず誰もが模索しているさなかに生きている漠然とした不安の中で、道を切り開こうとするヒロシさんの強い意志を感じた。
車中の会話は取材前の素晴らしいウォームアップになった。
3 宮城県南三陸町「南三陸さんさん商店街」
part1
正午近くに最初の目的地である南三陸町「南三陸さんさん商店街」へと到着。
2000Daysの取材時に仮設だった商店街は、3000Daysの現在では嵩上げされた土地へと場所を移し、2017年の3月3日に本設商店街としてオープンした。仮設店舗から本設店舗へと移行したものの、集客に伸び悩んでいる商店街や店主も少なくない。
その様な状況下でも「南三陸さんさん商店街」は強固な結束力を発揮し、今年の8月2日には200万人の来場者数を記録している。
仮設商店街として存続した5年間の総集客数は約200万人。それを僅か3年であっさりと抜き去った本設商店街の恐るべき観光力。このコロナ禍でも近隣や近県から訪れるマイクロツーリズム客の需要を取り込み今日も駐車場は満車に近い状態だ。
「そういえば、前の仮設商店街にあったモアイ象はどこに行ったの?」と
ヒロシさんが僕に尋ねた。
「ちゃんと移設されましたよ!」と東を指差すと、
ヒロシさんは笑顔でモアイ象の前に立ち、シャッターを切った。
1960年のチリ地震津波をきっかけに、南三陸町とチリ共和国は姉妹都市として交流が始まった。その友好の証としてはるばるイースター島から寄贈されたモアイ象は町のシンボルとなっている。
アスファルトの照り返しの中、商店街にある「及善蒲鉾店」と「山内鮮魚店」へと向かう。
今年の夏も容赦なく日差しが強い。それでもこの炎天下の中、「及善蒲鉾店」の店頭では及川善祐さんが額に汗を流しながら、町の名物「タコ唐揚げ」を揚げていた。そしてその向かいである「山内鮮魚店」の店頭では、山内正文さんが灼熱の鉄板でホタテを焼いている。
この町の顔役達は、勢いがある時も苦しい時も商売の勝負時だと感じた時には現場を鼓舞するかの様に必ず自らが率先して最前線へと立ち、次の商機の波を探る。それは震災直後もコロナ禍の中でも変わらないスピリットでありアティチュードだ。 「タコ唐揚げ」を買い求める列へと並び、及川さんに手を上げて挨拶した。
「あれ? 今日このメンバーで来たという事は、もう3000日が経過したんだ!」
会話が前日の8月28日に辞任を表明した安部元総理の話題になると、及川さんは思い出すように空を仰いで話を続けた。
「安部さんは野党時代からこの町のことを色々と気にかけてよく足を運んでくれたんだ。それを知ってる地元テレビ局から昨日早速取材の電話があってね。安倍さんの政権運営は何点でしたか? って聞かれたの。だから75点って答えた。 残りの25点は? と聞かれたので、まだ商店街から震災復興祈念公園にかかる中橋ができてないからって答えておいた(笑)。まずはゆっくり休んで体調を戻してほしいよね」
続いて山内さんにも挨拶をしに「ホタテの網焼き」の列に並ぶ。山内さんは前回に取材をした南三陸復興市の実行委員長を務めている。
「コロナでなければ本当は今年の4月に開催する南三陸復興市が100回目の記念回になるはずだったの。多少時期をずらしても今年中に開催したかったけど、この状況では厳しくなっちゃった。ただ、来年の4月には必ず100回記を開催したいね! 全国から皆さんに集まってもらいたいし。そして町の人達のお正月の準備の為に12月の『おすばで復興市』だけは開催したいね」
4 宮城県南三陸町「南三陸さんさん商店街」
part2
入店すると案内された先はカウンター席だった。板場では及川満親方が忙しそうに切り盛りをしている。県外への移動制限があった5月にお会いした際には、「テイクアウトばかりだと先も見えてこないし、何だか気が滅入ってきちゃって」と浮かない表情だったが、 徐々に規制が解除され営業を再開。その表情はとても嬉しそうだ。
この時期だけに味わえる「南三陸キラキラうに丼」に「旬のお造り」、丼からはみ出る程の「穴子天丼」をオーダーした。
「そういえばヒロシさんは九州の方にも撮影で行かれましたよね?」、「うん。宮崎県高千穂町に!物凄いパワースポットでもある場所で、その地から発信されるレーベルがあってね、民謡をダンストラックへとアレンジし直すプロジェクトに使うジャケットやリーフレットの写真を撮影して来たんだよね」
日本の伝統文化である民謡を現代に蘇らせ世界に発信するプロジェクト "TAKACHIHO EP"
なんとも興味深いプロジェクトのお話しを聞きながら注文した品が届くのを今か、今かとソワソワと待つ。
「お待たせしましたー」
各々の目の前には三陸の海の幸が並び、至福の瞬間を迎える。
さて、今回の旅でタイミングが合えば取材先で出会った方々に聞いてみたい事があった。
「10年前は何をしていましたか?何を考えていましたか?」
東日本大震災が起きる直前の1 0 年前。各々の人生を色々と変えていった震災を経て出会った皆さんが、震災が起きる前は何を考えていたのか? どの様に暮らしていたのか? をお伺いする事で、アフターコロナの先にあるヒントが見つかるのではないか? と考えたからだ。
早速、満親方にもこの質問を投げかけてみた。
「10年前でしょ? ちょうど気仙沼の唐やさんの板場を上がって、自分のお店を持ちたいなーとも思いながら町のホテルの調理場にいて、そこに震災がきた流れだったなー。当時は35歳くらいか」
満親方とは震災後から何度も顔を合わせてお話しをしてきたけど、お互いの年齢などを聞かずに過ごしてきた。同い年である事が判明した瞬間に2人で思わず笑ってしまった。
心地よい満腹感を抱えながら美味しい食後のコーヒーを求め、次は内田智貴くんが店主を務めるコーヒー&カレーの店 「月と昴」へ。
テイクアウト販売用の小窓から智貴くんと絵里ちゃんがいつもの笑顔で出迎えてくれた。
お店ではハイチ産の「カフェ・クレオール」を丁寧に1杯ずつドリップ。浅煎り、浅煎り、のどちらでも楽しめる。
「ヒロシさんも一緒という事はもう3000日がたったんだ。早いなー」と話す智貴くん。
コロナ禍のおり、現在は店舗営業を休止している店内へと我々を招き入れてくれた。
震災で出会ったアーティスト達との交流は現在も頻繁に行われ、ソウルフラワーユニオン中川敬氏を始め、リクオ氏や、モモナシなどのツアーライブを、本設したお店でも開催している。その中でも縁の深いモモナシは、智貴くんが自分で立ち上げたレーベルからCDシングルをリリースしている。
まだ3年だというのに、カウンター席の上にある壁はお店を訪れたアーティストのサインでいっぱいだ。
智貴くんと絵里ちゃんと会話をし始めると本当に話題のトピックが尽きない。様々なト ピックで談笑しているうちにあっと言う間に時間は過ぎさっていってしまう。
ここで智貴くんにも10年前の事を投げかけてみる。
「10年前は、ダーツバーを兄と一緒に経営していたから、まさか10年後にコーヒーをメイ ンに出すお店を自分がやっている事は想像もつかなかった。当時のお客さんは飲み会の後にコーヒーを出すと、そこからまた盛り上がって帰らなくなっちゃうから、その時はコーヒーという存在を好きになれなかったけどね(笑)そこに震災が起きてお店は流され、避難所でコミュニティカフェをやって、仮設商店街にコーヒーのお店を出して。本設商店街ではライブもできるお店にしてこれからだと思ったのに、まさかのコロナウイルス騒動だよ。 まあ、結構波乱万丈だね(笑)」