5 南三陸町震災復興祈念公園
旧防災対策庁舎
午後2時、「南三陸さんさん商店街」を後にして、「南三陸町震災復興祈念公園」へと移動する。
1000Daysの時に撮影した「旧防災対策庁舎」の周囲は今、東日本大震災の犠牲者を悼み、その記憶と教訓を風化させることなく次の世代に受け継いでいける場所として生まれ変わった。震災復興祈念公園としての整備が進められており、2020年10月13日から全面開園が予定されている。
駐車場に車を停め、園内にある「祈りの丘」へと続く階段を昇る。この「祈りの丘」は、標高20mまでかさ上げをして築かれた人工の丘で、山頂には東日本大震災の犠牲者名が刻まれた名簿を安置する石碑が追悼の言葉を添えて置かれている。
その碑を前に三人で黙祷を捧げ、撮影を開始。ここから町の中心部を眺めると、かさ上げした土地の高さが良くわかる。
「こんな高にさまで、土地をかさ上げしたんだね」
ヒロシさんが撮影をしながら、僕に話かける。
「驚きますよね。お隣の岩手県陸前高田市もかさ上げしていた時はすごかったですよ。山を切り崩してベルトコンベアを町中に張り巡らせて、かさ上げ用の土を運んでいましたから」
ひとしきり撮影を終え、丘を下ってゆく。丘のふもとに「復興祈念のテラス」が設置されており、そこには町の未来に向けたメッセージも刻まれていた。
そしていよいよ2000日ぶりに、「旧防災対策庁舎」の撮影に。2000Daysに訪れた時は震災遺構として残すための補修作業が行われており庁舎は覆いに囲われていた。頻繁に町へと足を運んできた僕と由布子さんも、庁舎の前に立つのはおよそ6年ぶりだ。
ヒロシさんが、さらに集中力を高めてファィンダーを覗き込んでいる。
撮影を終えると、それまでの強烈な陽ざしが嘘の様に空には黒い雨雲がたちこめ冷たい風が吹き始めた。
僕たちは急いで公園を離れ、2000Daysの時にも撮影をした高台にある志津川中学校前へと移動。高台からの3000日目が経過した町の様子を撮影し、次に町が整備した海水浴場のサンオーレ袖浜へ向かう。
サンオーレ袖浜へと到着するやいなや、激しい雨が車のウィンドウを叩きつけてきた。 「できるだけ撮影してみる!」ゲリラ豪雨の中、ヒロシさんと由布子さんが車の外へと飛び出し海岸へと向かう。と、同時に雨足は更に強まった。海岸からは今まで海辺にいた家族連れが雲の子を散らす様に、一斉に駐車場まで引き上げてくる。
「撮るだけ撮ってみたけど限界だ!」 ヒロシさんと由布子さんが雨に濡れながら戻ってきた。 南三陸町の撮影はここまでとし、日が暮れる前に本日の宿泊地である気仙沼市へと向かう事にした。
6 南三陸町→気仙沼市
三陸自動車道へのると嘘の様に雨があがっている。助手席のヒロシさんが助手席でスマートフォンの雨雲レーダーを見ながら笑う。「かなりピンポイントなゲリラ豪雨だったみたいだよ、これ。今、雨雲はちょうど陸前高田市にかかっているみたいだよ。僕達はまたゲリラ豪雨に向かってるみたいだね(笑)」
21世紀に入ってから各地で豪雨や台風による災害も本当に多くなってしまった。 地球温暖化の影響は天候だけではなく、近海の海産物にも様々な影響をおよぼしている。
「今年もサンマの水揚げがなかなか思わしくなくて。せっかく気仙沼に行くから、ヒロシさんには美味しいサンマやカツオを食べてもらいたいのに」
由布子さんがこの数年の海洋変化による海産物の不漁を嘆く。彼女は管理栄養士とフードコーディネーター1級の資格を持ち、復興庁の支援専門家としても被災企業の方々から様々な相談を受けている。そのため、この不漁の問題にはいつも頭を悩まされている。
唐桑気仙沼市に到着したものの、宿に直行するにはまだ時間があるため、夜の撮影のロケハンを兼ねて気仙沼市の内湾地区に新たにできた商業施設「ないわん」へと向かう事にした。三陸自動車道のお陰で南三陸町から気仙沼市へのアクセスも格段に良くなり、45分程度で僕達は到着した。
「ここは前に撮影で来た時は仮設商店街(復興 屋台村気仙沼横丁)があった地区だよね? ものすごく綺麗になったね!」
ヒロシさんが様変わりした風景に驚いている。
コロナ禍の影響でオープンのスケジュールが延びてしまった商業施設「ないわん」。震災前、気仙沼市の内湾地区は市の中心部としての役割を果たしてきた。かつての賑わいを取り戻そうと気仙沼市のキーマン達が力を結集し、9年近くの歳月を経てこの商業施設を誕生させたのだ。
「コロナ禍は色々なところに影響を及ぼしているよね。この国のあらゆる場所や町から外国人観光客の姿が消えて、日本人だらけの風景に戻った時にすごい昭和に戻ったみたいだ! と思うよね、本当に不思議な光景」
気仙沼市のケースでは、このコロナ禍で春先は大型マグロ漁船やカツオ漁船が出港できないという問題が発生した。日本船籍の漁船ではあるが、この数年船員はインドネシアなどアジア各国の若者が船に乗り込んで漁をしている。コロナの影響で日本に彼等は入国ができなかったゆえに、漁船も出港できなかったのだ。
現在は隔離期間をおきながら、インドネシア近海の島に船員が集合し船に乗り込んでもらうという方法を取りながら、大型船の出港ができる様になった。
海外との渡航の問題は観光面だけではなく産業面にも多くの影響を及ぼしている。
7 気仙沼市唐桑町
唐桑御殿「つなかん」
本日の宿泊は由布子さんたっての希望で唐桑町の民宿である唐桑御殿「つなかん」をチョイス。
ナビに示された途中の狭い山道は、昨年の台風19号の影響からか、至る所で土砂崩れの復旧工事が行われている。 「つなかん」は、東日本大震災の復興時に交流した人との繋がりから、宿主の菅野一代さんが震災の津波被害を受けた家を改築して2012年から始めた民宿だ。
唐桑町の鮪立(しびたち)地区にあり菅野さんが営む宿ということで、「つな=鮪 かん=菅野邸」という事から命名されている。その道は現在に至るまで平坦なものではなく、様々なドラマを含んでいる。詳細はWEBの様々な記事を参考にしてほしい。
宿に向かう道すがら、夏の終わりらしく夕暮れ時の素晴らしいマジックアワーの景色が目に飛び込んでくる。車を停めてしばし風景を撮影。日本の四季の美しさに思わず感謝をしたくなる。
ほどなくして本日のお宿「つなかん」へと到着。初めて訪れたのになんだか懐かしい 感じがする。親戚の家、実家に帰省した様な、そんな気持ち。宿に入ると、女将の菅野一代さんが僕達を出迎えてくれた。
板場からは美味しそうな匂いが漂ってきた。今日は三陸の海の幸を堪能している1日だ。夕食会場は立派な神棚が飾られているお座敷のお部屋に通された。唐桑御殿などのいわゆる「漁師御殿」には海に対して敬畏を表する大きな神棚が設置されているのが特徴なのだそうだ。本日の宿泊客は僕達以外に1人旅をしている人や震災復興の繋がりで訪れた支援関係の人々が泊まっている様子。一代さんが忙しそうに料理を各テーブルに運んでいる。
「ごはんは沢山、炊いてあるので、いっぱいお替わりをしてね!」
唐桑の人らしい、心のこもったおもてなし。
2000日目に取材をした僕達の社団法人の理事を務めてくれる気仙沼市の和食店「唐や」の吉田親方も唐桑の出身で、いつも同じ事を僕らに言う。唐桑の人々の料理のおもてなしの作法はどこにいっても変わらない。
「コロナの影響で、本当は沢山、沢山、お客様とお話しをしたいのだけど、それが感染拡大につながると言われちゃうと、なかなかゆっくりとお話しもできなくて。それが本当に困るの。お話しをするのが私の仕事なのに(笑)。今日のメニューは仲間の漁師さんが、マグロが網にかかったと言って、近海マグロを持ってきてくれたの。マグロのお刺身とハーモニカ(メカジキ)の塩焼き、それから唐桑の牡蠣を使った陶板焼きと牡蠣フライ です」
その一品、一品の料理を愛でるように由布子さんもカメラに写真を着々と収めてゆく。そして僕達は、料理に舌鼓を打ち始めた。年齢を重ねるごとに海の幸も山の幸も豊富な豊富な東北地方に住んでいる事に感謝の気持ちを持つ事が本当に増えた。食の充実は心の豊かさに大きな影響を与えてくれる事を実感する。
お昼を食べてから6時間しか経過していないのに、美味しいものはいくらでもお腹におさまってしまうのがいつも不思議だ。