11 陸前高田市
高田松原記念公園
岩手県と宮城県の県境に位置する気仙沼市は「宮手県」とも呼ばれる。北は陸前高田市、西は一関市に面しており、県境をまたいだ人の往来が日常生活において頻繁に行われている。岩手県は7月まではコロナウイルスの感染者が0人という唯一の県だった。この地域に暮らしている方々のコロナウイルスに感染してしまう事への不安は相当なものだったであろう。
気仙沼市唐桑地区から陸前高田市「高田松原記念公園」までは20分程度の所要時間で到着。駐車場に停車している車は、東北だけではなく関東ナンバーも多く見かけられた。
高田松原記念公園は、2019年9月22日にオープンしたばかりの復興の象徴となる国営追悼・祈念施設だ。
震災を伝える「岩手県東日本大震災津波伝承館 いわてTSUAMI メモリアル」、陸前高田市周辺の海産物、農産物などの特産品を販売している「道の駅 高田松原」という2つの施設も公園に併設されており、伝承館は「祈りの軸」、道の駅は「復興の軸」として意味付けられている。
施設間を繋ぐアトリウムには、水盤とトップライトが設けられており、この場所から海の方向に目を移すとまるで美術館を訪れたかの様な風景が飛び込んでくる。公園内へと足を踏み入れると広田湾の海へと真っすぐに延びる、「希望の軸」として意味づけられた園路と16本のケヤキが目の前に現れる。
公園内に漂う雰囲気はどこまでも穏やかではあるが、そのどこかに凛とした空気感が漂う。
前日の南三陸町震災復興祈念公園の撮影の時と同じく、カメラを手にしたヒロシさんのファインダーに向かう集中力が、どんどん研ぎ澄まされていくのが伝わってくる。
それは、肉眼だけでは決して見る事のできない、何かをとらえるかのようでもあった。
高さ12.5メートルの防波堤がある場所まで進むと広田湾を一望できる「海を望む場」へと辿り着く。
この場所では、訪れた人々が海に向かって、
静かに手を合わせていた。
堤防の向こう側では松の新たな植林作業も行われていた。
さらに園内を移動し、震災遺構として保存されている「陸前高田ユースホステル」と「奇跡の一本松」の撮影へと向かう。
津波に耐えて1本だけ残った「奇跡の一本松」。
僕が初めて訪れた被災地は陸前高田市で、この松の木と出会ったのは2011年の3月下旬だった。自衛隊の皆さんが懸命な捜索活動を行う姿。大きく傷ついてしまった町並み。気仙川を遡上した津波が山の中まで運んだ壊れた自動車の姿など、様々な風景が脳裏に焼き付いている。
町を壊滅させた津波が襲う前までは、この公園がある場所には約7万本と言われる松原が広がっていた。
「ここには松林もあって野球場もあったのに、何もかもなくなってしまった」
当時、被害状況を案内してくれた方の言葉を今でも思い出す。
津波に耐えた「奇跡の一本松」は、海水による深刻なダメージを受けおり、2012年5月には枯死が確認された。
松原に生息している松の木は、
地下で根の部分が長い歳月をかけてネットワークの様に複雑に繋がり、養分や水分を共有するのだという。
そのため単体で残ってしまった木では生き残る事が難しいそうだ。
それは、どこか人間社会の在り方にも似ている。
復興のシンボルとして国内外の多くの人に親しまれてきた一本松を、今後も後世へ受け継いでいくために、陸前高田市はモニュメントとして保存整備してこの公園内へと移設した。
静かなフォトセッションが終了する。
12 東日本大震災津波伝承館
いわてTSUAMIメモリアル
続けて「東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル」を見学する。東日本大震災で発生した東北の太平洋沿岸地域の津波は、約500キロにわたって甚大な被害を及ぼした。500キロという距離を東京から西方面への距離で換算すると、実に大阪までの距離の規模に相当する。震災後、青森県、岩手県、宮城県、福島県の4県には、後世に津波被害を伝える施設として各地域で伝承館が整備されている。
「東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル」は「命を守り、海と大地と共に生きる~二度と東日本大震災津波の悲しみをくり返さないために~」を展示テーマにしている。
歴史をひもとくゾーン1、事実を知るゾーン2、教訓を学ぶゾーン3、 復興を共に進めるゾーン4と、4つのセクションで展示は4つにゾーンニングされており、ガイダンスシアターも併設されている。
この施設には、ぜひこれからを生きる若い世代の方にも足を運んでほしい。そして多くの人に、防災/減災を考える機会の場として活用してもらいたいと心から思った。
悲しい震災ではあったが、ただ悲壮感を伝えて終わらせてしまうのではなく、再び起きてしまうであろう、大災害への備えとして、熱量が伝わる提言が随所にあるのだ。
僕達は時間を忘れる程に、発信されているメッセージの1つ、1つを捉えていった。
ゾーン3の展示コーナーで、今はない仮設商店街である「陸前高田未来商店街」の写真を見た時に、僕は涙腺が一気に崩壊してしまった。
仮設商店街の支援事業で陸前高田市に僕と由布子さんが通っていた、2012年から2015年の時期は、最大14メートルにも及ぶ、かさ上げ工事の最中で、映画ブレードランナーの様に町の至る所にはベルトコンベアが張り巡らされていた。
僕はこの写真に写っている小さな仮設商店街で札幌から復興支援で滞在していたHIPHOP DJ達と出会った。彼らは瓦礫の中からプラスチックを集めて「瓦Re:KEYHOLDER(ガレキーホルダー)」という復興支援商品をつくり、その商品作りを通じて雇用を創出し、被災者どうしのコミュニティの構築にも大きな役割を果たしていた。
復興支援の現場で奮闘する彼等に、僕はどれだけ勇気をもらっただろう。2012年の夏、「陸前高田未来商店街」の夏祭りの準備を手伝っている彼等が、ターンテーブルとミキサーを運んでいる風景を見た時、同じ復興の現場に自分が長年携わってきた、クラブという世界からの同胞がいる事を知った感動と感激を思いだしたのだ。
それは、まるで砂漠の中で仲間と出会えたかのような気分だった。
彼らは陸前高田で3年間程、活動を続け、地域にコミュニティカフェや特産品であるリンゴを使用したクラフトビールなど、現在に繋がる財産を残して北海道へと帰還していった。
1枚の写真から僕はその当時の記憶を一気に思い出した。
そして写真の力というものに深く感じいった瞬間でもあった。