8「百々音(ももね)まつり」
夜の灯りが戻ってきた3000日後の内湾の様子と、今年から初開催となった「百々音(ももね)まつり」の風景をカメラに収める。
タイトルの「百々音(ももね)」というネーミングは来年の春から放映されるNHK朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」にかけられている。ドラマでは気仙沼市も舞台となっており、市民の間では日に日に放映までの期待が高まっているのだ。
このお祭りでは約4000個もの風鈴が「ないわん」施設内に飾られている。風鈴の音色で流行り病や災いを振り払い、気仙沼市を訪れた人々の心に安らぎをもたらす様にという願いが込められているのだ。そして23時までイルミネーション風鈴も楽しめる。
涼しげな夜風に揺れる風鈴の音は日本の夏らしく風流でもあるが、ひとたび強い風が吹くとその数の多さから音色は“風鈴オーケストラ”と化し壮大な音色を奏でる。この風鈴の2面性はとてもユニークだ。
今年はコロナ禍で気仙沼市の夏祭り「気仙沼みなとまつり」も中止となった。気仙沼の海で打ちあがる花火や「はまらいん踊り」の音色も聞こえてこなかった。
「百々音(ももね)まつり」にはそれでも夏の気仙沼に観光へ訪れた人々に、少しでもお祭り気分を味わってもらいたいという「ないわんテナント会」の皆さんの心遣いが感じられる。
観光客だけではなく地元の人たちも、このお祭りを楽しんでいる様だ。若い世代のカップルの姿も目立つ。
「気仙沼市には大学がないから、若い世代が高校卒業後にこの町を一度離れてしまうのは仕方のない状況もある。けど、若い子たちが戻ってくるのは何年先になるのかもわからないし、戻らいない子もいるとは思うけど、いつ戻ってきても新しい魅力に溢れていて色々な事にチャレンジができる環境にしておきたいよね」
不意に「唐や」の吉田親方が震災から3年目ぐらいに自分に話してくれた言葉が頭に浮かぶ。現在、親方の次男は大阪のイタリアンレストランに修行に出た後、気仙沼へと戻り「ないわん」にとんかつ屋「ミナトノトウヤ」を出店し店長を務めている。
気仙沼の店主たちが次世代に託したい想いは徐々に形になってきているんだ。風鈴の音色に耳を傾けながら、ふとそんな事を思った。
「つなかん」に戻る前に昨年の夏にオープンした「気仙沼みしおね横丁」の撮影へ。
2019年の夏にオープンした「気仙沼みしおね横丁」は2000日目の取材時に撮影した仮設商店街「復興 屋台村 気仙沼横丁」の流れを組んだ商業施設だ。全てトレーラーハウスを活用した店舗でウッドデッキを連絡路に店舗間を繋いでいる。
遠洋漁船の漁師さんには嬉しい銭湯や、市場の近くならではの気仙沼に水揚げされた食材が朝から定食で楽しめる食堂、イスラム教徒のためのモスクや本格的なバーもあり国際色も豊かに人々が集う。詳しくは私が昨年に執筆した「みやぎ復興ポータルサイト」の復興記事を参照してほしい。
この夜も、横丁は気仙沼市に在住するインドネシアの方々も集まり盛況の様子。
時間があればこの場所を立ち上げた中心人物の1人であるバー「PRISM(プリズム)」の店主、小野寺雄志さんのお店に立ち寄って、お話しをお伺いしたかったのだが後ろ髪をひかれる想いで、本日の最終撮影へ。
2000日目の景色では、まだ気仙沼の内湾には灯りが少なかった。本日最後の撮影として気仙沼市内湾地区の夜景をヒロシさんのカメラへとおさめてもらう。
夏の終わりを告げる様にどこからか虫の音が聞こえてくる。 暗がりの中で水面に反射する人工的な光が、眩くも感じられる。 コロナ禍で過ごした夏の日を、10年後の僕らはどの様に回想するのだろう?
「バッチリ撮影したよ!」と笑顔でヒロシさんが車に戻ってきた。 1日目の撮影行程を全て終え、僕達は「つなかん」までの帰路へとついた。
9 つなかんの夜
本日の行程はこれで一段落。ヒロシさんは仙台に到着してからずっとカメラを離さず撮影の連続だった。その時間は実に10時間以上。
宿に帰ると一代さんと常連であろう宿泊客の皆さんが楽しそうに会話を続けている。その光景は、日本のどこの地方にもある夏の帰省時に親戚一同が集まっている光景にも見えた。今年はコロナ禍で田舎へと帰省できない人達がほとんどだったであろう。自分も正にその1人。当たり前の様な日常風景がどこかとても懐かしくも思える。
「おかえりなさい!どんな感じだったの?」
先ほど撮影したばかりの写真と動画を一代さんに見せる。
「これは綺麗だね。民宿をやっているからなかなか夜に出歩く事もないから、今度のお休みの時にでも行ってみようかな!お風呂が沸いているから入ってね」
この旅ではふすまを隔てた2部屋の同じ空間に集まって夜を過ごすことに。入眠前は3人でプライベートな事を含めて色々と近況の深い話をする。
振り返れば東日本大震災からの10年間というものは、生きるという事に真正面から向き合わざるをえない時間でもあった。震災が発生した直後から自分達がやれる事はないか?を模索し、被災した東北沿岸部を10年間近くで少なくとも40万キロ弱は車で走破した。その最中で各地域のコミュニティにいる沢山の人々と出会わせて頂いた。
確かに災害は起きた。悲しいニュースも沢山流れた。それらが全て“被災地”という枕言葉から括られていく違和感。悲しいニュースばかりではなく、その土地には困難に立ち向かい前に進んでゆく人々の姿があった。それらを記録したい。その時に思い立ったのが見る人へと訴えかける力を持つ、ヒロシさんの写真だった。
明日はどこを撮影しようか?
この不思議なご縁の中で生かされている事に感謝をしてから眠りへとおちた。
10 つなかんの朝
海から「ドーン」という地鳴りの音が聞こえてきたかと思うと部屋が一瞬揺れた。今朝の目覚めは地震と共に。窓の外に目を向けると夏の陽を受けた青い海に、漁から戻ってくる船の姿も見える。
今日も気持ちの良い、夏の終わりの日差しが唐桑にふりそそぐ。
朝食会場は、昨晩と同じお座敷の間で。
美味しそうに焼かれた鮭をはじめ、炊き立てのごはん、作り立ての味噌汁、これぞ日本の民宿ならではの朝ごはん!という和食が目の前に並ぶ。
「さっきの地震びっくりしたでしょ?ここらへんは外洋がすぐそばだから、必ず地鳴りがきてから揺れがくるのよ。さー、朝だけど、ごはんも沢山おかわりしていってね!」
「つなかん」では、朝早くに出発するお客さんも多い。その度に一代さんは、気仙沼の遠洋漁業の出港ではお馴染みの福来旗(フライキ)を手にして、車の姿が見えなくなるまで旗を振ってお見送りをしている。「つなかん」に帰ってきたい。全国各地からこの民宿を目指して宿泊客が訪れる理由がわかった気がした。
さて、そろそろ私達も出発だ。今日はどこを撮影しようか?寝る前に考えてはいたけど確実にここを撮影したいという風景をまだ決めかねていた。そんな中、出発前に一代さんとお話しをする機会が訪れた。
部屋にはお孫さんも来ていて、一代さんの腕に抱かれながら、遅めの朝食を一生懸命に食べている。
「今日はどこを撮影しに行くの?」
「実はまだ、はっきりと決めていなくて」と言葉を返した。
「陸前高田市の高田松原記念公園には行った?まだ行ってなければ、ぜひ行ってみて!公園の入口に立つと、まっすぐに海へと向かう道が目に飛び込んでくるの!そして道の周りには芝生の緑が鮮やかに広がって、一本松まで道が繋がっているから。何度行っても、あの場所は感動するから!」
僕たちは今日の行先を岩手県陸前高田市に決めた。
「岩手の沿岸部の町から唐桑へと嫁いできて、この家のお父さんにずっと“これがあなたの宿命だから”という言葉をいつでも聞かされてきたの。最初は何かに縛られている様で、その言葉には良いイメージがまったくなかったの。けど震災が来てまさか自分が民宿を開業をして女将をやる事になるとは思わなかったし、その後にも辛い出来事が起きるとも思わなかった。でも今だからこそお父さんに言われてきた“宿命”という言葉の意味が徐々にわかってきた気がして。孫も娘も、ずっと一緒にいてくれる。コロナ禍でも全国から繋がりのある人達が唐桑に足を運んでくれる。“宿命”という言葉を受け入れてどんどん前に進んでいかなきゃ」
“宿命”という言葉が持つ意味。
その答えを私達は一生をかけて見つけていくのだろう
。
「もうそろそろおばあちゃんとあそびたいから、もうかえってー」
お孫さんの可愛らしい言葉が飛びこんできて、全員の顔が笑顔になった。
福来旗を振る一代さんに見送られて僕達は陸前高田市へと向かう事にした。